『マリーゴールド』

+++written by yuri様+++

 

―――あひみての のちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり

 

あの人と出会う前のあたしは、一体どうやって生きていたんだろう・・・。

 

「―――ん、あれ?いつのまに終わっちゃったのかな・・・」
うたた寝をしていたソファーから身を起こすと、クライマックスを迎えていた映画はすでに終わっていた。
無機質な黒い画面上をスタッフロールが流動的に行進し、もの悲しいピアノ曲が 室内をたゆたい始める。
あの二人は一体どうなったのだろう・・・死を決意した男とそれに協力する女。
奇妙な縁で結ばれ、互いを強く愛しすぎた二人。
あまり好きではない悲劇的な匂いのするラストなのに何故か気になって仕方ない 。

―――それは行方の知れない・・・恋の結末だからかもしれない。

「・・・どうしたんだ。ぼんやりして」
ソファー越しに振り返ると、風呂上りの体をバスローブに包んだ彼が子供のような笑みを浮かべていた。ほのかに漂う自分と同じシトラスの香りに混じった彼の匂い。
途端に引き絞られたように胸が痛くなる。息もつけないくらいにその存在を意識してしまう。たった、たったそれだけのことで。
しばらくそんなふうに彼に見とれていると、ふいに頬に冷たい感触を受けた。
「うひゃ!何するの、速水さん!!」
「人が呼んでいるのに、いつまでたっても知らない振りをしているからだよ」
「だから本当に気づかなかったんだって。ああもうやめてったら!」
氷のように冷え切ったバドワイザーが今度は開いた首すじに当てられる。缶の外側を伝う水滴が胸の間を伝い落ちていく。自分の手がそこに向かう前に、長い指 先がそれを掬い取った。
「は、速水さん!」
意地悪そうな微笑を浮かべると、真澄は残りのバドワイザーを一気に煽った。
「もうこんなに温くなってる。やっぱりちびちゃんは体温が高いのか?」
「またそうやって子供扱いして!速水さんの意地悪!せっかく久しぶりに会えたのに。ひどいよ」
「・・・試してみればわかるさ」
甘いテノールの声に誘われるように振り向くと、濡れた眼差しが待っていた。
頬にあてられた手がうなじを探り、暖かい吐息がくちびるにたどり着く。深く重なった合間からほろ苦い液体が滴って、互いの体を濡らした。
「ほら、熱いだろう?」
「・・・やっぱり速水さん、意地悪」
「くく・・っ。悪かったよ。機嫌を直して、もう一度こっちを向いてくれないか ?お嬢さん」
再び口内に入った舌が歯列をなぞり、敏感な上顎や頬の粘膜を味わうようにゆっ くり舐めとっていく。息苦しさとも快楽ともつかない痺れが脳内を走る。生き物 のように蠢くそれを甘噛みすると、お返しのように臀部を掴まれ、柔らかなそこに長い指先が埋め込まれた。

いつもの・・・夜が始まる。

「あ、あ、もう・・・いやあ・・・」
「・・・根を挙げるのがいつもより早いな。すっかり俺のことを忘れていたというわけか?」
「ちが・・・っ。あ、速水さん・・・!だめぇ・・・!!」
「・・・マヤ、もう忘れさせない。二度と忘れられなくしてやる・・・」

この体に受ける快楽の波はあまりに甘美で鮮烈に過ぎて・・・ついそれにすべてを委ねてしまいたくなってしまう。抵抗を忘れ、必死に愛だと覚えこもうとするもう一人の自分が存在を主張する。その尽きせぬ想いもそれゆえの葛藤も迷いも罪悪も何もかもを手離して。
押し上げられ、高められてもう何も意味を為さなくなった。言葉では理解し得なかったことをこうして何度も飲み込まされる。たとえそれが・・・最初から偽りの答えだったとしても。

「・・・ああ、わかった。できるだけ早く帰るよ」
うとうととまどろんでいた意識に低い声が流れ込んできた。
暗闇の中でぼんやりと浮かんでいる広い背中をじっと見つめる。
きっと彼の妻からの電話に違いない。直感的にそう思った。そしてそんなことに 慣れてしまった自分を嘲笑したくなる。
ふう、と息を吐いた彼が振り向く様子に気づき、マヤは再び息を潜め眼を閉じた。大きな手が髪に触れ、次に剥き出しの肩を撫でる。―――別れのサインだった。
音を忍ばせながら、身支度を整える彼の気配に神経を集中させる。もう帰ってしまうの?奥さんに何て言われたの?今度はいつ会えるの?また抱いてくれるの?
言葉にならない、してはいけない想いがぐるぐると渦を巻き、閉じたまぶたから 熱い涙が流れ落ちた。鉛を飲み込んだように胸が苦しい。シーツを強く掴んでいた指先がいつのまにか暖かな掌に包まれた。
「・・・すまない」
謝らないで。あなただけが悪いんじゃない。
「息子が熱を出したみたいなんだ。薬を飲ませたが、下がらなくてひきつけを起 こしたらしい。今から病院へ連れて行くそうだ」
そう。早く行ってあげて。私の気が変わらないうちに。眼を開けて、あなたに取りすがってしまう前に。嫌な女になってしまう前に。
「本当にすまない・・・妻も動転していて一人にはしておけないんだ。彼女も息 子も体が弱い・・・せめてこんな時くらいはそばについていてやりたい」
わかってる。あなたが本当は誰よりも優しいひとだということは。
それを歪めてしまっているのはあたしのせい。
あなたを良き夫、良き父親から遠ざけているのはあたしがここにいるから。
「・・・また、連絡するよ」

―――ねえ。あたしがいなくなったら、あなたは幸せになれる?

 

 

 

「北島さん、待って下さい!」
テレビ局の広いエントランスを通り過ぎようとした時、大きな声に呼び止められた。
声の主は振り返らなくてもわかっている。だからそ知らぬふりをしてエレベータ ーホールへ向かおうとした時、目の前に大きな影が立ちふさがった。
「きゃっ!」
「ちょっとだけでいいんです。僕の話を聞いてくれませんか?」
鼻先すれすれにまで迫った真剣な男の顔に、マヤはたじろいだ。
「も、もういい加減にして下さい!上村さん!前にも言ったとおり、あたしにその気はありません。だからいい加減に諦め・・・」
怯むマヤの手をぐっと握り締めると、上村は子供のように澄んだ大きな瞳を向けた。
「何度断られても、僕は諦めません。これから先も後も北島さんしか有り得ないんだ。だからもう一度だけ、考え直してくれませんか?」
エレベーターを乗り降りする人々がじろじろと視線を投げかけている。無理もな い。傍から見れば、男と女の痴話げんかの一幕としてしか映らないだろう。
埒の明かない会話にとうとう業を煮やすと、マヤは上村の手を掴んでロビーの方へ連れ込んだ。
「あのね、上村さん。お話はとっても面白いと思うの。でもね、いろいろなこと を考えるとやっぱりあたしはお受けできないの」
「では何が問題なんですか?確かにあなたの実力とネームバリューからすれば、 僕の作品なんてちっぽけなものかもしれない。製作資金もぎりぎりで興収もはっ きり言って多くは見込めない。無名に近い若手監督が作るインディペンデント系 の作品なんて、誰も注目しないでしょう。ああっ!でも宣伝効果のためにあなたに眼をつけたわけじゃないんだ!あなたの舞台を初めて見た時から、僕は決めていたんだ。僕の『麻紀』はこの人しかいないって!!」
熱の篭った言葉の数々に圧倒されそうになる。
若手の新進映画監督である上村篤史からの熱烈な出演依頼を受け始めて、もうかなりの日数が経っていた。場所や時間を構わず、熱心にアプローチするその姿は 嫌悪よりも正直困惑するという感の方が強かった。
どことなく甘い印象を受けるベビーフェイスとは裏腹に強い知性と活力に満ちた双眸が輝き、映画にかける意欲と情熱がその言葉の端々からダイレクトに伝わってくる。
最初に会った時から、彼の印象は好ましいものだった。
そして似ている、と思う。
芸能界を追放され、月影からも見放されてただひたすら演技に飢渇していたかつての自分に。あちこちの劇場をまわり、関係者たちに食い下がり役を求めて彷徨 っていたあの頃に。
演劇にかける情熱、ひたむきな眼差し。そこにはひとかけらの打算や野心も込め られていない。
だから余計につらいのかもしれない。
今の自分はあの頃の純粋で美しかったところから、遥か遠くかけ離れた場所にあるのだから。
「スポンサーが現れて、海外ロケの目処がようやくたったんです。地元ツーリス ト担当者との連絡も順調にいってます。秋にはウラジオストクへ向かうことがで きるでしょう」
「あ、あの上村さん。ちょっと待って・・・あたしはまだ・・・」
上村は顔を上げると、真摯な眼差しでマヤを見た。
「北島さんが迷っているのは僕の能力を見極めようとしているからですか?それともただ純粋にこの作品に対して何の関心も期待もしていないからですか?あなたの名声を広めるには余りにも役不足だと感じているからですか?」
「そんな、そんなことは」
率直な言葉に、マヤは困惑する。 脚本を読んだ時から、その壮大なストーリー展開に大きな興味を抱いたのは事実だ。
シベリア鉄道と5つの街をめぐる男女の心の旅を描いた物語。自由奔放な魅力を振りまき、年下の主人公を翻弄するヒロイン役。久しぶりに心が躍るような刺激を覚えた。
でも・・・なぜだろうか。この躊躇いの理由は。
マネージメントを任せた大都を介さない個人的なオファーであるから?
半年もの間、日本を離れなくてはならないから?

―――彼との距離がまた広がってしまうから?

ぞくりと背筋が震えた。ここまで彼の存在は自分を浸食しているのだろうか。 命を懸けてまで費やした演劇への情熱も、この禁忌の恋の前ではかくも意味を為さなくなってしまうのだ・・・。
内心の葛藤を仮面の下に押し隠すと、マヤは静かに答えた。
「・・・お気持ちとご配慮に感謝します。ただ今後のスケジュールの調整もありますし、もうしばらく時間をいただけませんか?」
「じゃあ、もう一度考えてもらえるんですね?北島さん」
期待に満ちたその笑顔にこくりと頷きかけた時、物陰で見慣れた人影を見た気が した。しかし自分はそれに気づかぬ振りを装った。誰に何も言わせない。これは自分が選んだ仕事なのだから・・・。
「ああ、そうだ。これを・・・」
ややあって、上村は床に置いてあった紙袋から小さな包みを取り出した。
「何ですか?もしかして今日は買収するつもりだったとか?」
「違いますよ、それならもっと高級なものを考えますって。単純な贈り物ですから、安心して下さい。うちのプランターにできたもののお裾分けです。最近若い女性の間でも流行っているみたいですよ」
そう言って微笑むと、上村はその場を立ち去った。
後に残されたマヤはもう一度、物陰に視線を向けた。しかしそこにはすでに誰の痕跡もなかった。そのことに安堵とも落胆ともつかないため息をつくと、マヤは手にした包みを胸に抱えながらスタジオへ向かった。

「あ、可愛い」
包みを開けると、中から顔を出したのはオレンジ色の小さな花だった。まるで太陽のような光彩を持った花の色に物憂げだった視界がぱっと明るくなったような気がした。
「マリーゴールドですね。北島さんもお好きなんですか?」
衣装合わせをしていたスタイリストの女性がひょっこりと包みの中を覗き込んできた。
「アロマ効果もあるんですよ、これ。乾燥させてお風呂に入れたり、お茶にして飲んだりとか。まあ、ただ飾って置くだけでも可愛いですけどねえ」
「へえ・・・そうなんだ。知らなかった。帰ったら試してみようかな」
「あ、でも花言葉が何だかイヤなんですよね」
「花言葉?」
「ええ、マリーゴールドの花言葉。“嫉妬”っていうんですよ」
髪を梳いていた手がふと止まった。

―――嫌な言葉。

眼の前の花が急に卑小なものに思えてきた。小さな体で必死に太陽に手を伸ばしかけては届かず、周りの美しく伸びた花々を羨望の眼差しで見つめている。 みじめで・・・ちっぽけな存在。
「でも、そういう嫌な花言葉の方をよく覚えてたりするんですよね。何だか皮肉 ・・・北島さん?どうしたの?ごめんなさい。気を悪くしちゃった?」
「ううん、ちょっと疲れてるだけ」
「今日のシーンが終わればいよいよラストスパートに入りますよ。頑張りましょ !」
「ええ、そうね」

撮影が終われば、またいつもの夜が始まるのだ。
偽りと罪悪と歪んだ悦びに身を委ねる日々が。

知らず知らずのうちに、マヤは自分の肩を抱きしめた。
いつまで続くの?いつまで耐えられるの?いつになったら忘れられるの?
答えなんて本当に見つかるの?
(・・・疲れた)
何もかもが曖昧に思える。
これは幸せだった、これは不幸だったと秤にかけるように胸の中のもやもやした感情を片付ける作業にも飽きた。そしてそれを何も間違っていないと達観できるほど、自分は強くもなければ成熟してさえいない・・・。

 

To 速水さん
今日、すべての撮影が終わりました。
ラストのあたりは過密スケジュールだったので、ちょっとくたびれました。
2、3日休養したいと思います。
元気でいるので、心配しないでね。
From マヤ

 

彼から次の逢瀬の約束が届く前に、先手を打った。
テレビ局を後にすると、自宅へは戻らずまっすぐに駅に向かった。そして行き先 も確かめずに眼についた快速電車に乗り込んだ。

しばらく家に戻るつもりはなかった。
一日中彼のことを想い、訪れを待ち続けたあの部屋には帰りたくなかった。
会えば苦しむのはわかっている。
でも会えないのはもっとつらい。そしてその不在に慣れてしまう自分も怖い。
何もかも分かり合えた夜でさえ、朝がくればすべてが幻となって霧散してしまう。だったらすべてを幻にしてしまえばいい。そうすれば終わりを見つけることができる。
規則正しい振動に身を委ね、遠ざかっていく青いネオンに照らされた街を車窓から見つめた。自然と涙が零れ落ちた。別れの言葉を思い浮かべようとして・・・
結局できなかった。

速水さん、速水さん、速水さん・・・―――。
こんなに愛しているのに・・・こんなに求めているのに・・・あたしもあなたも きっと幸せにはなれない・・・。

 

********

 

「・・・待っていたぞ」

―――半月後。
ようやく心の均衡を取り戻し、ネオンの灯る街へ戻ることができた夜。
薄暗い灯に照らされた部屋の前にはやはりと言うべきか彼の姿があった。
「―――今までどこに行っていたんだ?できれば弁解よりも先に理由の方を聞きたいんだが・・・」
夜空にたなびくように煙草の煙が立ち昇っている。小さな灯に照らされた端正な横顔にははっきりとした憔悴の影があり、冴え冴えとした皮膚の色が際立って見えた。
一体、ここで何時間待っていたんだろう。
鈍い痛みが胸に走った。彼をこんなに悲しませることが苦しくてたまらない。
ふっと顔を伏せ、くちびるを噛んだ。荒れ狂う感情の嵐を理性がせき止めるまで のわずかな時間を待つ。
そして無言のまま彼の側を通り抜けようとした時、強い力で腕を引かれた。
「逃げるのか?」
冷たい怒りの刃を潜めた瞳だった。しかしその奥には隠しきれない哀しみの色が見える。マヤはあえてその眼を避けた。
「・・・離してください。今日は荷物を取りにきただけです。あなたと話すつも りはありません」
「上村とかいう若手監督の新作に出演するためか。しばらく日本を離れるつもり らしいな。俺に一言の断りもなしに」
動揺を隠すように、彼は吸いかけの煙草を地面に落とし素早く踏み潰した。
「それで・・・いつ帰ってくるんだ?」
マヤは何も言わなかった。ただ大きな瞳でゆっくりと彼を見つめ返した。
「―――・・・まさか帰ってこないつもりなのか?」
彼の喉仏がごくりと動くのがはっきり見て取れた。
「・・・上村とかいう男のせいだな。随分君のことを付回していたそうじゃないか。奴に何か言われたのか?」
「違います。上村さんは何の関係もありません」
「しかし君は彼の映画のオファーを引き受けた。まだ何の成果も評価も出してい ない無名に近い駆け出しの監督が作る映画に」
「・・・映画の件を引き受けたのはあたしが純粋にこの作品を気に入ったからです。けっして頼まれたから引き受けたわけじゃありません」
次の瞬間、彼は引き攣ったような笑い声をあげた。
「・・・嘘をつくな。あいつに何を言われたんだ。俺を見限って、あいつのところへ行くつもりなんだろう!?」
腕を掴む力が強まる。彼の苦悩が深まり、激しい慟哭が聞こえる。だけど、すでに別離へのカウントは始まっている。もう引き返す事などできない。
「―――君が俺と別れると言うのなら、奴は俺が潰す」
冷酷なその声にマヤははっと顔を上げた。
彼の顔はどこまでも無表情だった。しかしそれが取り繕われた仮面に過ぎないことはわかっていた。
ーーーこの上なく悲愴な表情で自分を見つめている。
「それが嫌なら・・・俺の側を離れるな」
「速水さん・・・」
「スポンサーである大都芸能のバックアップなしであの青二才がどこまで悪あがきができるか見ものだがな」
「速水さん・・・っ」
込み上げてくるものはけして哀しみばかりではなかった。虚ろな微笑を浮かべ、 何の関わりもない他者の破滅を算段している最愛のひとの姿。激しい情念の炎がその双眸から噴き上げ、すべてを焼き焦がすように燃え盛っている。それは己を 貶めてまでただ一人の女に固執し、深泥の底に堕ちてしまった心の行く末だった。
マヤはすべてを振り切るように、毅然と顔を上げた。
「・・・距離を置くことはそんなに悪いことなの?」
「マヤ?」
「速水さんがあたしを引き止めたいのは、看板女優であるあたしを奪われると思ったから?それともただ単に男としてのプライドが許さないから?」
「何を・・・何を言ってるんだ、君は!そんなことがあるはずはないだろう!あの時言ったはずだ。君を愛していると。もう二度と君を離さないと!!」
「・・・でも今はそれを信じることができない。信じたいのに信じられないの・・・っ。あなたさえ居ればそれだけでいいって何度も思った。でもやっぱりだめ だった。あなたのことも自分自身のことも何もかも信じられなくなったの!」
叩きつけるようにそう言い放つと、マヤは耐え切れず泣き崩れた。躊躇いがちに伸びた手が肩に触れる。その手を振り切るように、身をよじった。
「・・・やめて・・・あたしにはそんな資格ないの。ひどいでしょう、ひどすぎるよね。だからもうあたしなんかに構わないで・・・」
「・・・俺のせいなんだな」
ぽつりと彼が呟いた。
「君を追い詰めたのは、全部俺のせいだ」
「速水さん・・・」
「俺の存在が、ずっと君を苦しめていたんだな」
―――違う!
喉の奥から、心の奥から声にならない声が迸る。
愛してないわけじゃない。愛されなかったわけじゃない。
指先が細かく震えだす。硬く戒めた心がひび割れ、熱い奔流が滲み出してくる。
すぐ手を伸ばせばそこに愛しい腕が、甘美な悦びが待っている。だけど・・・それは本当の愛じゃない。幸せじゃない。だから、もう逃れることはできないのだ。

―――あたしは速水さんと別れなければならない・・・多分それはあたし自身のために。

「そう思っているのなら・・・もうここには来ないで下さい」
体を翻したその時、眼の端にちらりと何かがよぎった。わずかな希望に取りすがろうとした彼の繊細な白い指先が瞼の裏に焼きつく。
ああ・・・きっとあたしは何年たってもこの指先を忘れることはできないだろう。
幾度となく触れられ狂わされ、そして愛される悦びを覚えていったのだから。
「―――さようなら、速水さん」
差し伸べられた指先から零れるのは、悲哀と憔悴の一滴。
後ろ手でドアを閉めた瞬間、何かが崩壊していく音が聞こえた。

それが何だったのか・・・もう確かめるつもりはなかった。

よろよろと玄関に靴を脱ぎ捨て、半月もの間放置していたリビングに入った。
中途半端に散らかった室内は湿った空気で蒸れる様に暑かった。窓を開け放つと、冷たい夜風が体に沁みるほど心地よかった。
頬だけが燃えるように熱い。
だけどもう我慢しようとは思わなかった。
思い切り泣こう。泣いて泣いてまぶたが溶けて塞がってしまうまで泣き尽くしてしまおう。
哀しみの涙はこれで最後。
これからはずっと笑っていよう。
過去への悔恨ではなく誰かのためでもなく、これから訪れる未来のためだけに。

風の中にかすかに植物の匂いが混じっている。
ベランダに眼を向けると、小さな花が風に揺れていた。
マリーゴールドだった。
もらってきたその日からろくに手入れもせず、ベランダに放置したままだったのに。
それが・・・懸命に生きようと色褪せた花びらを広げ、自分を待っていてくれた。
さざ波のように優しい感情が胸の中に芽生える。身を屈め、そっと花に触れた。

「―――・・・ありがとう」

これが終わりになるか、始まりになるかはわからない。
でもこれだけはわかる。悲しみに耐えることが、きっと何かの出発点になることを。
誰にも知られてはいけない恋ならば、誰にもできない愛し方をしてみせる。

それがあたしのプライド、そしてあたしの生きるべき道。

 

―――マリーゴールドのもう一つの花言葉・・・“生きる”。

 

 

Fin

 

 


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