『落花』

+++written by 硝子様+++

 

 もし、今一番会いたい人に会えたなら、人はどんな喜びに包まれるのだろう。まして自分からは望めない相手だとしたならば。真澄を包む喜びは驚喜と呼ぶに相応しいものだっ た。真夜中の社長室に唐突に現れた目の前のマヤ。春とは言え、今日は肌寒く雨さえ降っ ていると言う。空調設備で一定温度に保たれている室内で仕事をしていた真澄にはそのこ とを知る由もないのだが、セーターを着ているマヤを見て、まだ開ききっていない桜さ え、この雨ですっかり散ってしまうだろう、と少し残念そうに秘書が言っていた言葉が真 澄の脳裏に甦ってきていた。

「これはこれは。まさかこんな夜中に豆台風のお越しとは驚いたな」
 真澄は全く思いがけないマヤの訪問に言葉以上の驚きを感じていた。勿論どんな理由で あろうとも、たとえそれが自分を詰るつもりで来たのだとしても、彼女の来訪は正直嬉し かった。一目その姿を見、怒声であっても声を聞けるのであればこれ以上の悦びはないの だから。だがそれを素直に認める事は容易でも伝えることは決して出来ない。浮き立つ嬉 しさを精一杯の皮肉で包んで切ない演技を披露する真澄。だがマヤはそんな苦しい真澄の心の内など知らない。
「・・・赤ちゃんできた、って本当ですか?」
 思いがけない爆弾を落とす。一言の前置きも、挨拶すらもなくいきなり投げつけられた言葉に、真澄は思わず心中で苦笑した。何を突然言い出すのかと思えば。どうせ週刊誌を賑わす流言飛語を真に受けているのだろう。
「くだらない・・・。そんなことで忙しいおれの時間を無駄にしないでくれ」
 彼女との間にはまだ何もない。あまりに馬鹿馬鹿しいことと軽く受け流そうとした真澄に、だがマヤは思った以上のしつこさで食い下がってきた。
「だって、紫織さんが病院に行く姿が週刊誌に出てたじゃないですか!」
 やっぱりそうか。全くこの子はわかりやすい。そう思いかけたが、そこでふと真澄の心に疑問が沸いた。だからと言って何故この子がわざわざこんな時間に怒りも露にこのおれを責めに来るのだ?これではまるで恋人同士の痴話げんかと同じではないか。
「確かに彼女は今体調が悪いようだ。春だし、花粉症かもしれない。だが、それが君に何の関係があるって言うんだ?そんなにムキになる理由があるのか?なんだかまるで、きみがおれのことを好きだと言っているように聞こえるのは、おれの気のせいなのか?」
 ふと思いついたあまりに幸福な幻想。ありえないことと思いつつ意地悪な冗談に紛れさせ自分の真実の心を投げかけてみたい衝動に、真澄は勝てなかった。
「な・・・っ!バカなことを言わないで下さい!」
 一瞬、自分の心が全て知られているのかとの錯覚に襲われた。いや、むしろ不安と言うべきか。それだけはあってはならないのだ。美貌、知性、教養、そして家柄。何もかもが揃った人を婚約者に持つこの人が、あたしの想いを知れば迷惑に思うに違いないのだから。迷惑だけはかけたくない。たとえどれほど自分が辛くともそんなことはいくらでも耐 えられる。耐えられないのは、迷惑をかけることだけ。もしそんなことにでもなれば、あ たしはあたしを許せない。
「自惚れるのもいい加減にしてください!なんであたしがあなたなんか・・・。とにかく、さんざんあたしや月影先生の邪魔をして一人だけ幸せになろうって言うのが許せないんです!」
「ほう・・・。だがまるで、妬いているようにしか聞こえんな?」
 からかう響きを耳にしたマヤは、思わず自ら禁断の扉を押し開けてしまった。
「・・・だったらどうするんですか?」

 

 

 刹那。己の殻が壊れていく音を、真澄は確かにその耳で聞いた。どれほど強く押さえつけようと、それを跳ね返すように内側からむくむくと膨張していく獣性が、堅牢だと信じ て疑わなかった理性の殻を壊していく、めりめりと言う音を確かに聞いた。聞きながら感じた「もう後には戻れない」と言う恐れとも後悔ともつかない声にすら、目も眩むような 悦びを自覚しないわけにはいかなかった。

 マヤが見ている。恐怖以外の何物でもない感情を満たしたその瞳で。本当の恐怖を見た時、人は視線を逸らせないものなのだと真澄は今初めて知った。自分から決して視線を逸らそうとしないマヤの固まった瞳を見て。
 「恐怖」。それでもいい。そもそもこんな真夜中、自分しかいない社長室に自ら乗り込んできたのだ。それなりの代償は払わねばならないだろう。たとえマヤの動きを封じるも のが恐怖のみであったとしても、今この瞬間、確かに自分がマヤの全てを支配しているの だ。その四肢も脳も。そう。マヤは今、この俺のことしか考えられないはずだ。それだけ で充分だった。それだけで、身体の中心から突き抜けるような、甘美な衝動に襲われる快 感を感じてしまう。言葉もなく、触れることもなく、ただ互いに向き合ったままでいて も。いつまでもこの言い知れぬ緊張と快楽に身を委ねていたかった。

 

 どちらが先に動き出すのか。身じろぎもできない緊迫の中で、先に呼吸をしてしまった方が負けだ。そして勿論真澄は負けるつもりなど毛頭なかった。
 根負けして、動いてしまったのはマヤ。
 ルールも知らずに陥ってしまった究極のゲーム。マヤはその、張り詰めた痛いほどの空気に耐え切れなくなったのか、じりじりと後退を始めてしまった。それが己の「負け」を宣告する白旗であると本能が告げていても、一旦逃げ出してしまえばその方がこの緊迫に耐え続けるよりもはるかに楽であることを知ってしまった今、その誘惑に勝つことなど出 来ない。自分から蟻地獄に落ち込んでいくのを感じながらも、マヤは後ずさるその足を止めることはできなかった。
 一方真澄は、そんな葛藤の只中で苦しむ彼女を何もせずにただ黙って見ていた。逃がすつもりはない。逃げられるはずがない。一歩ずつ一歩ずつわずかの距離で後ずさりしなが ら自分の逃げ道を塞いでいくその様を、いっそ冷徹な思いで見つめている。逃げろ。もっと。もう逃げ場はここにないのだと、諦めるしかないのだと、思い知るまで逃げてみろ。 打ちのめすような後悔で、逃げ切れないことをお前が思い知ってからでも、手に入れるこ とは遅くない。

「どうした。もう逃げないのか?」
 マヤの小さな背中が決して狭くはない社長室の、広くて高い壁の一辺に押し付けられた、その微かな音を合図に真澄は動き出した。獲物を狙う野生のハンターのように、決してその目を逸らさずマヤを見つめたままで冷酷な言葉を投げかける。己の残虐さを存分に味わう舌触りを楽しみながら、一歩また一歩とマヤを追い詰めていく。

  足が動かない。逃げ道はもう、自分で塞いでしまった。例え今、ドアに向かって全力で走ったとしてもきっとこの人に追いつかれてしまう。直感でマヤはそれを悟った。なぜならもう、自分の足は立っているのだけが精一杯なほどに震えているのだから。今駆け出し たところで足がもつれて満足に走ることも出来ないだろう。転んでしまうのがおちだ。倒 れた身体をあの大きな体で上から押さえ込まれたら、もう自分の力ではどうにもできな い。だがこのままじっとしていても捕らえられてしまう。どちらにしても、もう自分は逃 げられないのだ。この時初めてマヤの心に諦めが生まれた。その諦めは、妖しく強く、抗 し切れない魅力を持ってマヤに甘く囁きかける。身を委ねてしまえ、と。逃げ切れないの だからお前のせいではない。何もかもをこの男のせいにして、この諦めに身を委ねれば、 きっと優しく包んでやろう、と。その言葉が脳内に満ち、毒に犯されたような痺れがマヤ の理性と動きを封じていく。そしてその急かしながら身を任せることを強いる「諦め」の 声が真澄の声にひどく似ていると、ふと気がついた。これはもう、運命なのかもしれない ・・・。
 絶望と呼ぶにはあまりにも悲しすぎる思いに耐えかね、マヤは震える瞳を閉じた。まるで目さえつぶれば、見なくて済めば、今自分の身に訪れている救いのない状況さえも消え てなくなるとでも思っているかのように。瞳を閉じることこそが、自分を全てから救って くれる魔法の儀式だとでも信じているかのように。だがそんな甘えなど通用しないと、突然間近に感じた、やけどしそうなほどに熱い熱を放出する存在によって気がつかされる。 目を。開けることを止められない。見てしまってはいけないものが今、目の前にあるとい うのに。開けてはいけない第二の扉。こじ開けてしまうのは自分の弱さなのか、それとも どこかで期待しているから?でも一体何を・・・?
 ・・・もう、どちらでもいい。どちらにしても見ないではいられないのだ。この、服を通してさえ感じられるギラギラと肌を焦がすような熱を、無視することはできないのだ。 禁忌であるとわかっていながら確かめたくて、ゆるゆると広げられていく瞼の、その速さは同時にマヤが「諦め」に身を許していく速さでもあった。

 ゆっくりと押し上げられる瞼。下から徐々に上へ昇ってといく視界。それはまるで開い ていく花の蕾のように。ついに、瞳を開ききってしまったマヤの眼前に広がるもの。それ は憎い男が満面に浮かべる勝ち誇った笑みだった。ずるい。この人は、追い詰められたこ んな状況でさえ、あたしが自分から瞳を開くことを知っていて黙って待っていたのだ。あ たしが好きだ、ってこと知っていて・・・。でも、どうして知っているの?こんな、苦し い思いで諦めたくても諦められない恋心を。一度も、誰にも、打ち明けたことなんかない のに。誰にも、ましてこの人にだけは、知られたくないのに。知られないようにしていた のに。こんなに。こんなに好きなことを。あぁもういっそ。好きに、ならなければよかっ たのに・・・。

 撃ち抜かれたと、真澄は思った。床にしっかりと立っているはずの足がグラリと揺れそ うなほどの衝撃を感じるその反面、今日は信じられないことばかりが起こるな等と冷静に 見つめるもう一人の自分。今マヤが、まるで熱に浮かされたような正気を失くした瞳で自 分を見つめつつ、そのくせ瞳には何も映さずにうわ言のように呟いた小さな声。言葉の泡 は空気に触れ、すぐに弾けて消えていったが、確かな存在を真澄の耳朶に残していった。
「好きに、ならなければよかった・・・」
 気がつけば腕の中にマヤがいた。腕がしびれるほどにきつく抱き締めていた。あまりに突然のことに言葉もないマヤの、ただ喘ぐような呼吸の音しか聞こえない。だが、その吐く息、吸う息の一つ一つから、言葉にできないマヤの、ほとばしる様な恋情が、まるで放 射する体温のように発せられているのを強く感じ、真澄は全身に走る神経の全てを熱くさ せていく。見れば恋しい想いが涙となっているのか、マヤの顔をキラキラと飾っていく。 その泣き濡れた顔が真澄に突きつけてくるのだ。マヤの想いの強さを。そして、懸命に隠 している悲しい健気さを。ふいにその想いに胸を塞がれて呟いてしまった言葉。
「すまない・・・・・・・・・・・・!」
 だが、全く偽らざる素直な気持ちで呟いたその言葉がマヤの偽りの言葉を誘うことになるとは、皮肉なことだと言わざるをえない。
「キライ・・・・・・・・・ッ!キライキライキライ・・・・・ッッッ!」
 突然抱きすくめられ、とっさに身を守ろうとしたのか胸の前でしっかりと合わせられたまま、真澄の体に動きを封じられた、その不自由な両手に渾身の力をこめてマヤが抵抗してくる。精一杯でありながら、か弱い抵抗を見るにつけ、真澄はマヤの屈折した想いを知 ることになるのだ。全くこの子は素直じゃない。この期に及んでキライだと?・・・・・ ・・・もう、何もかもをこの俺に知られていることに気がついていないのだろうか・・ ・?
 詭弁でもなく、思い込みでもなく、真澄は確かにマヤから、激しい熱を感じていた。あの梅の谷での魂の触れ合い。あの時よりも今の方が遥かに確信は強い。間違いなく、この 子は俺が好きで、今まで何度も俺はこの子の偽りの言葉に騙され続けてきたのだ。「そん なことはありえない」と惨めな気持ちで諦めていた、そこにつけ込んできたのだ。本人に そのつもりがあろうとなかろうと結果的にそうだったのだからもう、今更容赦はしない。 これまで苦しめ続けられた分、それでも諦め切れなかった分、この子にはたっぷりと思い 知らせてやらねばならないだろう。先ずはこの手だ。本当は背中に回したいくせに胸板に 叩きつけてくるこの悪い両手は封じてやらねばなるまい。
「悪い子だ・・・」

 


 真澄は片手でマヤの両手首を掴むと、反対の手でしゅるりと衣擦れの音を立てながら、 まるで訓練されたかのようないっそ美しいとさえ言える動きでネクタイを引き抜くと素早くそれで縛り上げ、マヤの両手を封じると同時に自らの両手を自由にしてやる。もう、逃 げられはしない。逃がしはしない。決して離さない。その貪欲な強すぎる願望が凄まじい までの覚悟を迫ってきても、真澄は恐れることなく全て受け止めようと思えた。何を失っ ても、何に煩わされても、今目の前にいる存在を自分に留めて置けるのならどんな犠牲も 厭わなかった。
 拘束された手首を高く頭上へと掲げ、壁に磔のようにされているマヤはもう、全く身動きすらできずに翻弄されていた。甘く囁き誘い続けた「諦め」が、罠にはまったマヤをク スクスとあざ笑う声さえ聞こえない。意地悪く笑いながら「お仕置きだ」と一言言うとあとはただ、口内に押し入り、ぶつけるように注ぎ込んでくる真澄の熱い想いを受け止める だけで精一杯だった。今自分が息をしているのかどうかさえわからない。溶けていく・・ ・。溶かされていく・・・。もう、何もわからない・・・・・・。
 マヤは間違いなく自分を欲しているはずだ、そう自分に言い聞かせながら、それでもあえて彼女が欲しているのが果たしてこの口付けなのか、心なのかとの問いには気づかない ふりを押し通す真澄。抑制の効かない強すぎる激情を、ただ受け止めてくれ、と小さな体 を壊してしまいたいほどに押し付けていく。この世にこれ以上ない愛しい存在。誰よりも 大切に優しくしてやりたいのに激しく求めることしか出来ない自分に恐れを抱きつつ、も う、止められないのだ、と思い知らされるのだ。
 雨の夜。まだ開ききってさえいない桜の花びらが震えながら散っていくのは、果たして寒さのためだけなのだろうか・・・・・。

END

 

 


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