『一番欲しかったモノ』

+++written by RIBI様+++

 

--第1章--

「え〜と…、速水さん、その…、どう、ですか?」
フィッティングルームの扉から、躊躇いがちにぴょこりと顔だけ覗かせてから、マヤは真 澄の前におずおずと歩み出る。
彼女が身に纏っているのは、どこまでも真っ白なウエディングドレス。
ふわり…とレースを翻して現れたマヤは、自分の姿に気恥ずかしそうに頬を染めながら も、真澄に対してひどく幸せそうににこっと笑う。
そんな彼女は、まるで舞い降りた雪の妖精のように可憐で可愛らしい。
一瞬呆然と見惚れてしまった真澄だが、互いの間に広がる沈黙に、マヤが徐々に心配げに 眉を顰め、その大きな瞳がふいと彼の顔を見上ながら、
「あのぉ…、やっぱ、…ヘン?」
などと言ってきたので、ハッとし、慌てて覚醒する。
「いいや、そんな事はない。とても…、よく、似合ってる。すごく…綺麗だ……」
そう言って真澄は、眩しいモノを見るように目を細めながら、優しげに微笑む。
その微笑が、「愛おしい」と言葉にしなくても全身から語られているようで、マヤは瞬間 真っ赤になった。
思わず彼の視線から逃れるように俯いて、もじもじと身を縮めてしまう。
真澄はそんなマヤの初々しい様子に、苦笑しながらも、ついつい目尻が下がるのを抑えら れない。
若い彼女にあわせたふんわりと柔らかいデザインのそのドレスは、胸元に深いカットが入 れられ、そこから彼女の肌が大きく露出していた。
美しいミルク色の肌。
その肌がどんなに瑞々しいか、どんなに自分の手にしっくりと馴染むか、知っている。
真澄は誘われるような心地で、彼女に触れる為手を伸ばすと、直後あさっての方向からコ ホンと咳払いが響く。
「速水様、北島様にベールを付けさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
かけられた声に内心ギクリとし見れば、ここの着付け係の女性が、複雑なレースをふんだ んにあしらったベールチュールを手に、可笑しそうに口元をほころばせながら彼を見てい た。
つい二人きりのような気分で、マヤを抱き締めてしまおうとしていた真澄は、瞬間出鼻を 挫かれたような気持ちになった。
だが、つられる様に苦笑しながら、ふっと嘆息すると潔く場をゆずり、艶やかな黒髪が 真っ白いベールに包まれるのを、どこか夢見るような瞳で眺めていた。

フルオーダードレスの専門店。
この日真澄とマヤは仕事の休みを合わせて、連れ立ってここへやって来ている。
来月に迫った彼らの式で、マヤが着る予定のドレスが仕上がってきたと連絡を受けたから だ。
そう、あと1ヶ月。
来月のクリスマスイブの日、その日にマヤは真澄の為にこのウエディング・ドレスを纏っ て、彼の花嫁となるのだ。

 

彼らの関係を動かしたのは、マヤの方からだった。
今から半年前、叶わぬ自らの想いに絶望しながらも、それでも日々募る真澄への思慕の念 に、もはや八方塞がりの様な気持ちでいたマヤの耳へ、ふいに飛び込んできた噂話。
彼女の仕事場である撮影現場に、取材にやってきた記者の一人が、ぽつりと漏らしたその 言葉。
真澄の婚約が、内々で破談にされていて、近いうちに正式に発表されるだろうと…
嘘だ、と思った。どうして?とも。
でもそれ以上に、すでに限界の表面張力ぎりぎりにまで達していた自らの想いが、ついに 堰を切って溢れ出し、真澄へ向けて流れ出すのを、マヤはもう、止めることが出来なかっ た。
今考えてもマヤは、自分の行動に、つくづく溜息が出そうになってしまう。
どうして自分はいつまで経ってもあぁ考えなしの、直猪突進の性格なのだろう…と。
昔から一旦こう!と決めると、もう脳内がその思いに占拠されて、全く後先考えず、脇目 もふらずに突き進んでしまう。 この時もそうだった。
マヤはその日の仕事が終った直後、その足で、時刻はもう深夜という時間だったにも係わ らず、大都芸能社長室を襲撃したのだ。
昔は激情に駆られて、そして幼さゆえにいくども行っていたその行動。
それを、この年になってまでするというのは、ある意味つらい。
もう子供でない今の自分では、そこへ向かう道々で、幾度も冷静な声が脳内に響き、彼女 の足を引き止める。
『行ってどうするのよ なんて言う気?』
『こんな時間よ? いくら速水さんだって、もう帰っちゃってるに決まってるじゃない …』
『大体、いったい何時まで、こんな風にあの人に迷惑かける気なの』
子供だったあの頃なら、かっかと燃え上がっている感情で心の中がいっぱいで、考えもし なかったようなことが、今ではいくつも頭に浮かび上がってしまう。
これが大人になったということなのだろうか…
それでも、マヤは立ち止まりそうになる足を、無理矢理のように動かして、目的地へと 向っていた。
いざ着いても、真っ暗な社長室を、ただビルの下から見上げるだけなのかもしれない。
実は速水さんは、またパーティにでも出ちゃってて、とっくに退社しちゃってたりとか…
それでも、とマヤは自分を奮い立たせるために、こう考えていたのだ。
これは、『賭け』なんだ、と。
時計は0時をまわって、居ない方が当然のようなこの状況で、自分は分の悪い『賭け』を している。
もしか彼が居たなら、賭けは自分の勝ち。
そんな風な、勝手で、自己満足な、思い込みだけの『賭け』。
それでも、勝ったなら… それは、きっと、これは私の気持ちを伝えなさいと、そう、神 様が言ってるんだと…───
そして、辿りついた先、昔からどこか見慣れてしまったその部屋の中に、彼は、居た。

 

「やっぱ、都合のいい、夢じゃないのかなぁ…」
ホテルの窓辺に立ち、ぼんやり外を眺めながらマヤはひとりごちる。
「何が?」
言うとも無しに漏れた独り言に、背後から思わぬ返事が返り、びっくりしてマヤは声のし た方向を振り返った。
すると部屋の入口に、つい先ほどマヤと入れ替わるようにバスルームに消えたはずの真澄 が、驚くほどの速さでもう出てきて、頭をごしごしとタオルで拭いていた。
ゆるく巻かれたバスローブの紐で、はだけ気味の襟ぐりの間から覗く真澄のたくましい胸 元が目に入り、思わずマヤは真っ赤に赤面してしまう。
慌てたように、捻っていた顔をくるっと戻し、窓の外へとその視線を逃がす。
彼のこんな姿を見るのは、もう何度目かであるというのに、マヤは未だ慣れる事が出来な い。
真澄は頭を拭いたタオルをポンとテーブルに投げ出すと、静かに窓辺へと歩み寄り、そっ とマヤを背後から抱きしめた。
少し湿った肌の感触。 息を吸い込めば、自分と同じボディソープの香りに、仄かに混じる 煙草の匂い。
そうやってすっぽりと包み込まれる様に抱きしめられると、なんだかひどく安心するのだ と最近は思えるようになった。
まるで雛鳥が大切に真綿にくるまれているかのよう。
自分が、大切に、大事に、守られているのを感じる。
この中にいさえすれば、もう自分には、何にも怖いものなんかないと、そんな風に思えて しまう。
マヤは首を捻って肩越しに彼を見上げると、まだ濡れ髪の真澄の髪はいつものクセが取 れ、分けずに前へ垂らしたそのヘアスタイルでは、普段よりずいぶんと年若く見える。
カッコよくて優しい、まだ30歳になりたてくらいの男の人みたい。
そんな彼が、いざ昼間になれば、あんなおっきな会社で沢山の人たちから怖がられてる、 鬼の社長になるんだから、変てこな感じだ。
思わずしげしげと物珍しく真澄の顔を眺めていたマヤは、直後その口元がくすりと笑い、
「穴が開きそうだな」
と言われてはっとする。
慌ててくるっと振り仰いでいた顔を戻したマヤに、真澄は身を屈めてその耳元に息を吹き かけるように唇を寄せる。
「それで… 何が夢じゃないかって…?」
その囁きと耳に感じる彼の吐息に、マヤは思わず背筋がぞくり…と波打つのを止められな い。
どきどきと心拍数が急上昇していく。
体に回された真澄の腕にこの鼓動が伝わってしまい そうだ。
「そのっ… 全部、が…」
彼の腕の中、深く俯きながらうわずった声色で、思わず本音をぽろりと漏らしてしまった マヤに対して、真澄はさらりと彼女の髪を掻き分けると、赤く染まった耳を軽く甘噛みし た。
直後びくっと反応し顔を上げたマヤに、真澄は気にする風もなく、何度も耳の輪郭をなぞ るように歯を立てる。
硬直するマヤに、真澄は彼女の頬に手を伸ばすと、その大きな手でついっと自分の方に振 り向かせ、当然の様に唇を奪う。
ゆっくりとマヤを解きほぐすかのように、何度も角度を変え重ねられるくちづけ。
しだいに崩れ落ちそうになる膝に、支えを求めてマヤは腕を伸ばし、真澄のバスローブの 胸元をぐっと掴むと、反動でさらに彼の胸元をはだけさせる。
厚い真澄の胸板から、シャワーしたての温かな体温が直にマヤに伝わる。
執拗に繰り返され、呼吸も奪われそうなキスに、マヤがとろんと目を潤ませていると、真 澄は唇を離し間近でマヤの瞳を覗きこみながら、
「まだ、夢みたい?」
と、くすりと笑われて、その彼女の迷いなどお見通しだという真澄の視線を受けて、マヤ は赤くなりながらもそれでも反発心を沸き立たせる。
「だって…! 絶対叶わないと思ってたのに、付き合って、それで…もうすぐ、結婚する なんて…、なんか、信じらんないんだもん」
ホントに、もしも今この瞬間布団の中でぱちっと目が覚めて、あぁやっぱり夢だったんだ …となっても、当然のような気がする。
それほどに、ありえない事のような現実。
絶対に届かないと思っていた自分の想いを受け入れられ、こうして今真澄が自分の傍に居 てくれることも信じられないというのに、あと1ヶ月もすれば自分は真澄の妻となり、 ずっとずっと彼の傍にいていいだなんて。
半年前の絶望にかられていた日々を思えば、あまりにも今の状況が現実離れしているよう な気がしてならない。
実際付き合いだしてからも、マヤはこんな風にこの現実を半信半疑のまま、過ごしてきた のだ。
幸せすぎて、あまりにも自分には幸せが過ぎるような気がして、どこかこの幸せに浸りす ぎてはいけないような気がしてしまう。
いつか手痛いしっぺ返しがあるような… ぱちんと、この夢から覚めなければいけない時 が、いつか必ず来るような、そんな漠然とした不安。
真澄は笑顔のままに、マヤの言葉につられた様に、気持ちを吐露する。
「俺も、夢じゃないかと思うよ。今日、ウェディングドレスを着た君を見てよけいそう 思った。あんまり綺麗で…、捕まえておかないとふっと幻みたいに消えてしまいそうだっ た」
そっと彼女の頬を大きな手が包み、その手がやがて後頭部にまわると、広い胸の中に引き 寄せられた。
ぎゅっと抱き締められたその中で、耳に真澄の鼓動が聞こえる。
「君を放さないし、もう、放せない。どうか…俺から放れていかないでいかないでくれ。 俺が望むのは、ただ、それだけだ…」
真剣な響きをもって、頭上から降り注がれたその言葉が、ゆっくりとマヤの不安を覆い心 を満たす。
マヤは返事をする代わりに、真澄の背中に腕を回し、彼にそっと抱きついた。
それは、放れたりしないよ…という彼への合図の様にも、そしてこれが夢ではなく現実な んだと自分に確認させる為の様にも思えた。

自らの背中に回された華奢な腕を感じて、真澄はどくりと体温が1度上がるのを感じる。
互いに深く抱き合うことで生まれる熱で、腕の中の彼女からはシャンプーなどとは別の、 もっと甘い媚薬の様な香りが立ち昇り、真澄は毒気にやられたようにくらくらと視界が揺 らいでしまう。
本当に彼女は何か特別な、自分を狂わせる為のフェロモン剤でも持って生まれてきたので はないかと思うことがある。
なぜって、本当に彼女だけなのだ、傍にいるだけで、これ程にまで自分の心をかき乱し震 えさせ、堪らないほどにさせられるのは。
何度キスしようとも、何度抱きしめようとも、心が満足することがない。
つと離れたその瞬間から、もっと…と飢えたように次を求めてしまう。
彼女に対する執着と欲求、それは昔から誰にも負けないほどだと自負してきたが、いざこ うして付き合いだしてからも、想いは薄れるどころか加速度的に増していくばかりだ。
このまま自分はどこまで彼女に溺れていくのだろうと、その底のない想いに、時々恐怖す ら覚えることがある。
真澄は熱に浮かされるように身を屈め、そのまま彼女の顎の下に顔をうずめると、細い首 筋に唇を当て、ゆっくりと舌を這わせていく。
「…んっ……!」
真澄がマヤのバスローブの襟ぐりを軽く掻き広げ、胸の上部あたりを強く吸い上げると、 かすかな痛みに小さな声が上がる。
真っ白は肌の上に、あまりにもくっきりと付けられる痕。
それは左胸の心臓の上に。 この存在は自分の為だけのものだ、きっとその為に彼女はこうして存在してくれているの だ。
そのまま真澄はマヤのバスローブの身頃を肩から落とすと、彼女のどこまでも真っ白な雪 のような肌が露になり、昼間この肌に触れようとしておあずけを食った事を思い出した。
もしも…こうして想いが通じ合う事が無かったら…
いつか彼女があのような真っ白いドレスを着て、自分ではない別の男の物になる姿を眺め やりながら、永遠に触れることの叶わなくなったこの肌を思って、やり切れない衝動に駆 られた事だろう。
真澄は存在を確認するように、彼女の腰から背にかけて素肌を満遍なく撫で回しながら、 あらゆる箇所に口づけを浴びせていく。
そろそろと蠢く真澄の指先の感触と唇の応酬に、マヤはぞくぞくと鳥肌が立つような感覚 が全身を痺れさせる。 しだいにマヤの胸先が痛いほど張り詰めた時、狙い済ましたように、真澄は彼女の乳房を そっと片手で包み込みその蕾を指の先で挟むと、もう片方の蕾を唇に含み軽く歯を立て る。
びくんっと反応したマヤが、真澄のバスローブをぐっと握り締めた。
そのまま舌先で転がすように蕾へ愛撫を繰り返すと、彼女からか細い獣の鳴き声のような 声が上がる。
すでにマヤはバスローブの紐は緩み僅かに引っ掛けただけの姿で、がくがくと目に見えて 膝を震わせ、なんとか壁にもたれ掛かり立っているが、今にもへなへなと崩れ落ちてしま いそうだ。
真澄は口元に微笑を浮かべると、彼女の力を無くした膝を掠め取ると、マヤを横抱きに抱 え上げる。
その拍子に彼女の両腕からするりとバスローブが床に落ち、真澄の腕の中で全裸となって しまったマヤは、羞恥に胸を押さえ隠しながら体を丸めて縮こまる。
真澄は構わずマヤをベットルームへと運び、二人でシーツの上へとなだれ込むと、覆いか ぶさるように彼女の上にのしかかり、性急な仕草で再度深いくちづけを始めた。
のけぞるようにして彼の唇を受けたマヤは、そのまま侵入してきた彼の舌が口内のゆっく りと侵食し、それに刺激されて段々と体中のあちこちが敏感になっていくのを感じる。
気持ちよりも先に、皮膚から覚えさせられた彼から与えられる感覚。
体のそこら中が、彼に触れてほしくて、口付けてほしくて…ちいさな悲鳴を上げているよ うだ。
でもそれを言葉にすることが出来ないから、マヤは真澄の首に腕をまわすと、自らの舌を 追いかけるように彼のに絡ませて答える。
夜が一層深く彼らを包み込み、互いを求め合う欲情を螺旋の様に絡ませながら、二人は官 能の海に沈んでいった。

 

1ヵ月後のクリスマス・イブの日、郊外の小さな教会で、二人の式は行われた。
その日は朝から急に冷え込み、そのきんっと澄み渡った空気の中で、高らかなチャペルが 彼方まで響き渡る。
「まあ…マヤちゃん…」
花嫁の控え室にマヤを訪ねた水城は、扉を開けた途端、感嘆の溜息を漏らした。
部屋の中では、すでに着付けもメイクも終り美しく整えられたマヤが、緊張した面持ちで 部屋の中にひとり佇んでいた。
マヤは、水城の顔を見てほっと安堵したように相好を崩す。
「とっても、綺麗よ。なんだか…マヤちゃんじゃないみたいね」
近くまで歩み寄りながら、水城はしみじみそんな事を言う。
「え〜〜もうっ、それって、どういう意味ですかぁ?」
瞬間張り詰めていた緊張が緩み、マヤは思わずいつものようにぷくんと頬を膨らませなが ら、綺麗に紅を引かれた唇をとがらせる。
その子供っぽい仕草に、水城はついクスリと笑いが漏れてしまう。
「冗談よ。はい、これ」
そう言って、手に携えていたものをマヤへと差し出した。
それは、紫のバラで作られた花嫁のブーケ。
紫のバラ以外はアイビーやスマイラックスといったグリーンのみが配された、バラ本来の 美しさが際立つ正統派キャスケードスタイルのブーケ。
水城が自らの手でアレンジメントして作ってくれたものだ。
両手で抱き締めるように受け取ると、馴染み深いバラの香りにふんわりと包み込まれる。
マヤはふと、その花に纏わる過去のさまざまな思い出が頭に甦り、感極まってつい涙がじ んわりと浮かんできてしまった。
「ありがとうございます、ホントに… 水城さんには、いっぱいいっぱいお世話になっ ちゃって… わたし、なんてお礼を言えばいいか…」
水城は真澄とマヤとの紫のバラに関する事を知る、数少ない人間の一人だ。
長い年月を経て、ようやく結ばれた二人を誰より喜び、今日のこの式も、彼女は寸暇を惜 しんで準備に奔走してくれた。
水城は、いいのよ…と言いながら、ハンカチでマヤの涙をぬぐう。
そうしてマヤの涙を押さえながら、水城は不思議なほどの充足感に満たされていた。
真澄がこの少女にどれほどの想いをかけてきたか、一番身近で見てきた。
そしてマヤが、今日のこの幸せを手にするまでに、どれだけの苦難を乗り越えてきたか も。
そんな二人が、ようやくこうして結ばれることが出来る。
水城はマヤにつられて、思わずじんと目頭が熱くなってくるのを堪えながら、
「おめでとう、マヤちゃん…── 真澄様を、どうぞよろしくね」
サングラスの向こうの瞳は、何よりも優しく微笑み、その表情はまるで母親の様に慈愛に 溢れていた。

思わず身震いをするほどの寒さに、いつの間にか、空からちらちらと白い真綿が降り出し た時、彼らの式はしめやかに執り行われた。
快く父親役を引き受けてくれた黒沼に腕を取られながら、マヤは教会のバージンロードを ゆっくりと真澄の元へと歩く。
内々で催した今回の式は、互いの本当に親しい者だけを招いた。
心からの拍手を贈ってくれる参列者達は、マヤと苦楽を共にしてきた劇団つきかげや一角 獣の皆や、水城に真澄の学生時代からの友人という面々。
ベールの向こうで彼らの微笑を眺めやりながら、マヤは祭壇の前で佇む真澄をじっと見詰 める。
黒いタキシードを身に纏った真澄は、その手を差し伸べて、マヤがそこへたどりつくのを 待っている。
ああ、そうだ。ずっと…もうずっと長い間、彼はこんな風に自分に手を差し伸べ、私を助 け、導き、そして彼の元へ辿り着くこの瞬間まで、私を待っていてくれたんだ…
一方真澄も、ゆっくりとした歩調で一歩一歩自分へと近づいてくるマヤを、どこか幻想の 中にいるような想いでじっと見詰めていた。
手に入るはずが無い存在だった。
自分はただ影から守っていく事しか出来ないのだと。
そんな彼女が、本当に、ただ自分だけのものになる。
自分の人生の中に、これからは彼女という光が、ずっと傍らに寄り添って存在していって くれるのだ。
祭壇への道を歩み終えたマヤは、黒沼の腕から真澄の腕へと移りながら、ベールの向こう でニコリ…と華の様に微笑う。
真澄もつられて微笑を返しながらも、内心あまりにも幸せが過ぎて、なんだか泣いてしま いそうなほどだ。
彼女以外、もう、何もいらない───…
真実、心の底から、そんな風に思える。
そうだ、彼女さえいてくれれば、俺は何もいらない。
そして、彼女が傍にいてさえくれれば、きっとどんな事だって出来るのだ……

神の御前で愛の誓いをたてながら、真澄は同時に、燃え上がるような想いである決意を固 めていた。
だが、この時のマヤは、ただ信じ切れないほどの幸せの絶頂に心を取られ、真澄の秘めた 覚悟など、まだ何も…知るよしが無かった。

 

 

─2章へ─

 

 


back  

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO