『一番欲しかったモノ』

+++written by RIBI様+++

 

--第4章--

「た、ただいまぁ……」
恐々という具合に、極力物音を立てないようにして玄関扉を開けてみる。
だが、いざ開けてみると室内は真っ暗闇で静まり返り、マヤの頼りない小声に答える声は無い。
(真澄さん、まだ帰ってなかったんだ…)
その事実に半分がっかりしながらも、半分拍子抜けにふぅと吐息をつき、マヤは大きな荷 物を抱え上げて部屋に入った。
北海道の撮影を無事終え、ようやくマヤは東京へ、真澄と暮らすマンションへと帰ってきた。
荷物を手にリビングの照明をパチリと点ければ、ハウスキーパーによって綺麗に整えられた見慣れた室内。
マヤは荷物をその場に放り出し、ソファにドサッと身を横たえた。
旅先から『家』へと帰り、身体が安心感にふっと解放されていく。
疲れたとはそれまで全然思っていなかったのに、いざこうして自宅で寛げば、急に身体が疲れを感じだしたりしてくるから不思議だ。
心地いいソファの柔らかさ。クッションに顔を埋めて軽く息を吸い込めば、そこに沁み込んだ馴染み深い香りがマヤの鼻腔を擽る。
真澄の愛煙している煙草の香りと、真澄が最近愛用している香水の仄かな香り。
1週間ぶりに身近に感じる彼の匂い。
途端、マヤはぞくぞくと身体のどこからか湧きあがる寂しさや切なさが、あっという間に全身を包みこみ、ぎゅっと自らの身を抱き締める。
「早く、帰ってこーい…」
ソファに突っ伏しながら、独り言を呟いてみる。
早く、この香りの主に会いたかった。
そして、心に芽生えた沢山の言葉を、一刻も早く、伝えたかった。

 

 

時計の短針を半周ほど戻した頃、ひと通り話し終えたマヤの前で凛子はポツリと漏らした。
「…社長に、何もしてあげられない、ですか」
それまで黙ってマヤの話に耳を傾けていた凛子からの第一声に、マヤはこっくりと神妙に頷く。
「私って、ホントに何にも持ってないんだもん。演じる事以外、ホント、何にも出来ない …」
途中から話しの内容がほとんど愚痴同然の様になってしまっていることはマヤにも充分判っていたが、滑り出した口は止められなかった。
「ずっとずっと、彼の役に立ちたいって、思ってた。彼の為に何かしたいって。何か出来るようになりたいって。でも、私いつまで経っても逆ばっかり。役に立つどころか、迷惑ばっかりかけちゃってる」
深く深く、俯く。
下を向くと、そのまま気持ちも一緒にずぶずぶと地面に沈んでいってしまいそうだったけ れど。
ぐっと膝の上で拳を握り締めながら、
「…こんな事っ、考えたくないけど、もしか真澄さんがちゃんと彼に相応しい女の人と、結婚してたら……っ」
その先を言葉にするのは、ひどく息苦しかった。
そう…そうしたら、あんな風に責任とか取らされたり、彼の地位が揺るいだりする事は、 まず無かったに違いない。
頭の中に、彼と見知らぬ上品な女性が寄り添う姿が浮かび上がる。
強く唇を噛んだ。
イヤだけど、イヤだけど、嫌だけど!それが彼の為だと言われたら…
俯いた姿勢のまま、泣きそうなほどに顔を歪めていたら、不意に頭上からぷっと噴き出す声がした。
その声に、さっきまでとても上げる気になれなかかった顔を、え?!と思って上げる。
すると、なんと凛子が目の前で肩を小刻みに震わせて笑っていた。
笑い声をなんとか押し殺そうと口元に掌を当てているが、だが笑うこと自体は押さえられないとばかりに。
マヤは目を剥く。
「り…凛子さんっ! もうっ! なんで笑うの! 私、私、真剣に悩んでるんです よ!!」
カッとなって叫んだ。
だってひどいではないか。
ここ数日、悩んで悩んで、本当に救いを求める気持ちで打ち明けたというのに、まさか笑われるなんて!

 

一方、真っ赤になって怒るマヤを尻目に、凛子は悪いと思いつつもなかなか笑いを収めることが出来ずにいた。
悩んでいるのは判っていた。だから、少しでもマヤの助けになれればとかなり無理矢理ながらでも聞き出したのだ。
なのに、いざしっかり事情を聞いて、こうして笑ってしまっているのは…
正直に言おう、…拍子抜けしたのだ。
凛子は笑いが収まってくると、今度はじわじわと優しい気持ちが湧きあがり、口元が知らずに綻ぶ。
凛子はふとマヤのマネージャーに付く事が決まった時、社長室に呼ばれ真澄に言われたことが頭に甦っていた。

『あの子は演劇以外の事では、ひどく不器用で危なっかしい子だ。君の様にしっかりした者が傍に付いてくれれば安心だ』
『俺と結婚することで、彼女の周りも色々と面倒が起こるかもしれない。勿論、そんな事の無いようするつもりだが…』
『社で何が起こっても、君はまず彼女の事を第一に考えてくれ。彼女が演じる事だけに集中できるように』
『あの子を、守ってやってくれ。宜しく、たのむ────』

元々社長室付きの秘書であった凛子にとって、真澄は戦々恐々の鬼社長であった。
毎日の様に響き渡る部下への怒声。
落ち目のタレントや所属俳優への容赦ない切捨て方。
一片の情もかけられず、彼に潰されていった会社も、幾つも見てきた。
冷血漢。そんな異名に恥じないそんな男が、自分などに『頼む』と言ったのだ。真剣な目で。
一瞬、見慣れたはずの自分のボスの顔が、誰だかわからなくなった。
呆気に取られながらも、それでもなんとか『わ、判りました。私の力の及ぶ限り、精一杯努めさせて頂きます』と言葉を紡いだ。 すると、

『ありがとう』

そう、お礼を、言われた。
そして、なんとその上、ひどく優しい顔をして、微笑まれてしまったのだ!
驚いた。いやむしろ、仰天したといってもいい。
思わず今聞いた言葉と、見たものが信じられず、長い時間自分の耳と目をひたすら疑ったものだ。
けれどそれからすぐマヤのマネージャーとして毎日彼女に寄り添い行動するうちに、悟った。
マヤなのだ。
演技をさせれば信じられないほどの輝きを放って、誰をも魅了する彼女。しかし一旦素に返れば、ちょっと唖然とする程無邪気なあどけなさと馬鹿正直な感情表現。
確かに真澄の言ったとおり、ひどく危なっかしく、なんとしても守ってやらねばと思わさ れる。
だが… この少女と共にいると、自分の感情が知らず変化しているのに気付く。
マヤはちょっとした事にも大喜びし、怒り、涙を流したりする。
まるで子供のようだと最初は思っていたのに、そんな彼女の素直さに、いつの間にか自分が引き摺られているのだ。
それに気づいた時、世界の色が変わったように思えた。
今まで何気なくあいまいにして通過してきた様々な事が、全く意味を違えてしまう。
そんな影響力が、この少女にはある。そう、きっと、あの鬼社長すらも変えさせるほどに。
凛子はここに至って、心の底から納得した。
何故真澄があれほどまでにマヤを掌中の珠の如くに、大切に大切に慈しんでいるのか。
女優としてでなく、ただのマヤという女性の、その価値が。
頭の中で、マヤと真澄が寄り添っている姿が、ごく自然な姿として浮かぶ。
しかし、そんな奇跡の様な魔法を使う彼女は、自分の力をさっぱり認知していないらしい。
これだけの影響力をもってして、『何にも出来ない』と言ってしまうのだから。
その無意識っぷりに、その鈍感さに、つい笑ってしまうのは仕方が無いというものだろう?

 

ようやく笑いの収まった凛子は、すいません…と苦笑を滲ませながら、マヤの機嫌を取り成す。
マヤはまだぷりぷりと頬を膨らましているが、それでも凛子からの助言を期待しているのだろう。
ちろちろと、それで…どうしたらいいと思う?と言葉にしないながらも視線で語りかけてくる。
ふと、凛子はいいなぁ…と羨望にも似た想いが湧きあがった。
真澄もマヤも、想いはただ相手の幸せのこと。自分の事よりも、相手の事。
そんな風に誰かを愛するのは、また愛されるのは、どんなに幸せな事だろう──…

「じゃあマヤさん。マヤさんが社長に何もしてあげられない、として… その逆はどうなんです?」
不意打ちの凛子の問いに、マヤはきょとんとし、
「逆?」
まっすぐに聞き返してきた。
「そうです。社長がマヤさんに対してしてあげられる事、どんな事があると思います?」
「えっ! え…そ、そんなの、いっぱいありすぎて数え切れないよ…」
「例えば?」
間髪いれず返され、マヤは混乱しながらも頭を捻る。
「え…っと、だって社長さんだから、私が仕事に集中出来るように色々、考えてくれるし」
「悩んでたら、アドバイスしてくれるし…」
「困ってたら、支えてくれるし…」
言いながらも、マヤはどこか異和感を感じずにいられなかった。
(…違う。そんなんじゃなくて、もっと…)
黙り込んだマヤに、凛子が繋ぐように付け足す。
「他にも、婚約時分からドレスだ靴だ宝石だと、次々と贈られるプレゼント、とか?」
その言葉は、マヤに更なる異和感をもたらす。
(…ドレス …宝石)
「社長お金持ちですものね〜 新居にもあんな豪華なマンションを、ポンっと用意なさったくらいですし。仕事もバックアップしてくれて、マヤさんもこんなに沢山の事をしてくれる方が旦那様で、お幸せですよね?」
「うっ、うん… それは、そうなんだけど…」
納得いかないながらも、凛子の勢いにつられて相槌を打つ。すると、
「で、そんな風にマヤさんに色々してくれる社長だから、メリットがあるから、結婚されたんですか?マヤさんは」
続いたその発言に、マヤは顔色を変えた。
「違うっ!!」
マヤはがたっと椅子から立ち上がると、大声で否定する。
「違うよっ、そんなんじゃない! そんな事で結婚したんじゃないもんっ!!」
「何が違います? だってマヤさんはおっしゃったじゃないですか。何も出来ない自分より社長はもっとあの方に相応しい…、つまり社長の仕事の助けになったり、地位を安定さ せてくれるメリットのある人と結婚すれば良かったんだって」
「そんな事言ってない! ただ、ただ私は…」
「同じことですよ。つまりマヤさんは社長の幸せは、そういう目に見えるメリットデメ リットの上に成り立っているんだと、そうおっしゃってるんです」
「……」
口を引き結んだマヤの肩に、凛子はそっと手を乗せ彼女を椅子に腰掛けさせる。
「ねぇ? マヤさんは、社長が色々『してくれる』から結婚された訳じゃないでしょ う?」
こっくりと、マヤは神妙に頷く。
「何故、社長と結婚しようと… そう思われたか、覚えてらっしゃいます?」
何故? 何故って、そんな事簡単だ。
ただ、ただ、彼が好きだったから。
好きで、本当に好きで、彼以外の人なんて考えられなかった────
芽生えた想いは、マヤの心に火を灯し、胸に熱いものがこみ上げてくる。
(そう、私が欲しいものは、他の何でもない。彼だけがくれる、たったひとつのもの…)
思わず涙ぐむマヤに、凛子はニコリと笑い、
「社長もきっとマヤさんと同じですよ…」
その言葉に、涙を零しながら、マヤは何度も何度も頷いていた。

 

 

マヤはソファの上で、ぼんやりと目を覚ます。
1週間の強行軍の撮影旅行は、やはり疲れを溜めさせていたらしい。 知らぬ間にウトウト としてしまっていたようだ。
掛け時計を見ればもうすぐ深夜の11時。
真澄が帰ってくる気配は、まだ無い。
静まり返った室内で、マヤはひとり指を噛み締めた。

 

一方大都芸能社長室では、カチャカチャカチャカチャと、ひたすらキーボードを打つ音が響き渡っていた。
ふと、そこにドアをノックする音が混じる。
「社長、失礼致します。これが最後ですわ」
顔を覗かせた水城秘書が、手に持った書類の束を真澄のデスクの上に置いた。
「あぁ、遅くまですまなかった」
「いえ。ではわたくしはそろそろ… お疲れ様でした」
そう言って水城は真澄に一礼をすると、静かに社長室から退室して行った。 時刻はもう11時半を過ぎようかという時間だが、まだまだ彼の仕事は一区切りが付かない。
今日はマヤが北海道から帰宅する日だという事は、真澄もちゃんと承知していた。
気まずいまま喧嘩別れして1週間。忙しい、というのを免罪符にして結局彼女に一度も連絡を取らなかった。
そして、彼女から連絡してくる事も、無かった。
仕事に関してはどんな強引な手を使って時には相手よりも何手も先んじる事も出来るというのに、昔から彼女に関することだけは自分でも嫌になるほど後手後手に回り、いざ伸ばす手もひどく逡巡してしまう。
悪い癖だとは思ってはいるのだが、ここに至っても、改善されそうに無い。
正直に言うならば、今すぐ顔を見たい。声を聞きたい。
けれど、その口から今度はどの様な言葉を浴びせられるのかと思うと…
真澄はふっと嘆息すると、とりあえず今製作途中のこの書類が終わらない事には、と、意識を無理矢理PCへと集中させた。
一人きりになった室内では、ひたすらキーボードを打つ音だけが響く。
 カチャカチャカチャカチャカチャ
その時、コンコン…とまたもやキーを叩く音に混じって扉の方向からのノックの音に、真澄は視線も上げずに声をかける。
「なんだ、水城くん。なにか忘れ事か?」
かちゃり…とドアが開けられた音がし、にもかかわらず漂う無言の空気に、真澄は訝しんでパソコンから顔を上げる。
するとドアの前には、つい先ほど会いたいと思っていた張本人が、所在なさげに身を小さ くして佇んでいた。

 

「…あの、えっと…その……」
目を剥いてじっと見詰められ、マヤは用意していたはずの言葉が全て頭から吹き飛んでしまう。
(だからどうして私は思い込むと抑えが効かないのよぉ…)
そうは思ってみても、もはやあとの祭りなのは、これまたいつもの事だ。
互いに顔を見合ったまま、沈黙の空気がその場に満ちると、先に呼吸困難になったのはマヤのほうだった。
「ご、ごめんなさい…っ。いきなり押しかけちゃって。えっと、あ、そうだ! あの、 たっ、ただいま!」
必死に紡いだ言葉も、マヤの強張った作り笑いと共に、宙に浮く。
「それで…その…」
じっと注がれている真澄からの視線が痛い。
仕事場に何しに来たと、冷たく言われてしまうのだろうか。
だんだんと身を萎縮させ、いよいよ言葉をなくしていくマヤに、ぽつりとした真澄の声が届く。
「あの時と一緒だな…」
その語調に怒りが混じっていない事が分かると、それだけでふっと心が解け、マヤは思わず涙腺が緩みそうになってしまった。
「…あの時?」
涙を堪えているから、出す声は震え気味だ。
真澄は椅子に腰掛けたまま、執務机の上で指を組み合わせて、マヤを見詰めながらどこか遠い目をする。
「あの時も、俺は会社で一人仕事に向き合っていた。…もう、1年近く前になる」
瞬間マヤの脳裏に、確かに今と同じ時間、同じ様にこうして社長室を襲撃した過去を思い起こさせる。
確かにまるであの時に戻ったかのようなこの状況に、マヤは奇妙な既視感を感じてしまう。
「そうやっていきなり扉を開けて飛び込んできて… 俺は豆台風が今度はどんな文句を言いに来たのかと思ったものだ。なのに最初は今みたいに要領の得ないことばかり言って …」
口角を上げて真澄はふっと笑う。
マヤはその時の事を鮮明に思い出して、かーっと顔に血が上ってくる。
そう…、あれは真澄に好きだと告白をした時のことだ。
あの時も、心の中は真澄への想いでいっぱいだった。
溢れる想いをただ伝えたくて、受けいれられなくても、ただ彼に伝えたくてしかたがなかった。
そして、それは、今も……
「ごめんなさい…──」
言葉がするりと滑り落ちてきた。
「ひどい事言って、ごめんなさい。私大切な事、忘れてた」
素直な気持ちが口から流れ出てくる。
「あなたの事が、大好き。誰よりも、どんな事より、私にとってあなたが一番…大事」
マヤの言葉を、真澄は静かに聞きいっていた。
「あなたが笑ってる顔が好き。優しそうに私を見詰める目が好き。私をからかって面白がる顔も、怒っちゃうけどホントはすごく好きなの」
自分の心に向かい合いながら浮かんでくる言葉をただひたすら口にする。
どうしたことだろう、言葉にすればするほど、胸の中の想いは止め処も無く溢れるばかりだ。
これだけ大きくなった想いをどうやったら全部真澄に伝えられるだろう。
もどかしいような心地で、マヤは自分の中の語録を必死に探り、言葉を綴る。
「あなたが傍にいるだけで、どんな時でも胸がぽわんってあったかくなって、とっても幸せな気持ちになる。他の人じゃ、絶対ダメ。こんな風に思えるのは、ホントにホントにあなただけ…」
マヤはそっと両手を広げ真澄へと、心の全てを捧げるように突き出す。
「私があげられるのは、この気持ち。あなたが大好きって、この気持ちだけは誰にも負けない。だから絶対あなたは、私が、幸せにするの。あなたが私を幸せにしてくれるみたいに」
心の蓋を全開にして、迷いなく言い切ったマヤは、澄み切った空の様に透明な美しさを放っていた。
純粋だからこそ、自らの想いを率直に伝えようと言葉を尽くす彼女は、ひどく眩しく、捧げられるこの想いをはたして自分などが受け取っていいのかと、一瞬真澄を逡巡させる。
真っ白な雪に、汚れた靴底で足跡をつけることを躊躇うように。
だがマヤが僅かに首を傾けて、にこりと笑ったので、真澄もそっと苦笑して腕を開く。
「おいで…」
途端華奢な体が真澄の腕の中に飛び込んできて、真澄の座る椅子が瞬間ぎしっと軋む。
マヤの艶やかな髪に顔を埋めると、数日振りの彼女の薫りが鼻腔をくすぐり、なんだか堪らない。
愛されている、自分は。これほどまでに、真剣に、真摯に、その全てを捧げられて。
「愛している…… 俺の幸せは、こうして君が腕の中にいてくれる事だ」
真澄の腕にぐっと力がこもる。
「だから俺が恐れるのは、ただ、君を失う事。それだけなんだ…── その事を…どうか忘れないでくれ」
腕の中で彼女が小さく頷く気配がして、真澄はさらに深く深く自らの中に取り込むように、細い彼女を抱き締める。
それでも、きっと彼女には分かるまい。
彼女を得て、その愛情を浴びて、真澄はそれまで自分がどれだけ暗い道を歩んできたか、 どれだけ自分が独りだったかを思い知らされた。
ようやく手にしたこの光をこの温もりを、もしか失う事をどんなに真澄が強烈に怖れ、脅迫めいた不安に脅えているかを。
夜毎抱き締めて眠らなければ、いまだ安心できないのだという事を。
このちいなさ存在が、彼にとってその全てだという事を。
きっと彼女には、真実理解することは、出来ないだろう。

 

「ダメだね、私。これじゃあなたに何時までも子ども扱いされても、しょうがないよね」
抱き締められたまま溜息混じりのマヤの声が響いた。
しみじみ反省しているかのような言葉に、真澄はその頭上で、くすりと笑う。
「子供扱い、ね… まぁとりあえず、あとちょっとで、もう少しばかり大人になるわけだ」
「は??」
マヤは真澄の腕の中できょとんとしたように彼を見上げると、真澄は可笑しそうに表情を崩す。
「なんだ、やっぱり忘れてるのか。ほら…」
真澄は顎でデスクの上をしゃくり、マヤはそれにつられて視線を向けた先には置時計があり、時刻はPM11:55を示していた。
それでも、それが一体なんなのかわからないマヤは、首を傾げて再度真澄を見上げる。
どういうこと?とくるっと瞳を回して問いかけていて、真澄は思わずぷっと吹き出してしまった。
「こういうイベントは女の子は忘れないものだろうに… 後5分で日が変わる。そうしたら君の誕生日だろう」
言われてマヤは今日の日付を思い出し、ぱちんと弾かれた様に、あっ…!と声を出した。
「ずいぶん前だが、今度の君の誕生日は君の望むところに行く約束にしてたろ。さてはそれもすっかり忘れてたな」
真澄の言葉にマヤはうっと黙り込むしかない。まさしくその通りなのだから。
「え、じゃあ、明日はデート?なの?」
「明日の夜には仕事を入れないように前から水城君に調整してもらっておいた」
とたんマヤがぱぁああと顔を輝かせたので、その嬉しくて仕方がないという様が真澄の心をときめかせる。
彼の一挙一動にこうまで素直に反応を見せてくれるのは、ましてやそれを喜びという形で表現してくれるのは彼女だけだ。
「どーしよう、どこいこう、うわぁ行きたいところいっぱいあって選べないよぉ」
大興奮するマヤを宥めるように頭を撫でると、優しい真澄の手にマヤの顔が幸せそうにほころぶ。
視線が合い、どちらともなく唇をそっと合わせていた。
デジタル時計がピッという機械音を発して、時刻が0時になったことを知らせる。
「誕生日、おめでとう。奥さん」
真澄は唇を放すと、こつんと額を合わせて呟く。
「ありがとう… 真澄さん」

 

 

翌日の夕方、仕事を終えたマヤは約束どおり社長室へとやってきた。
マヤが望んだのが、前々から見たかった映画に一緒に行って欲しい、という事だったの で、上映時間的に会社で真澄と合流する事にしたのだ。
「マヤちゃん、お誕生日おめでとう」
顔を覗かせると、秘書室にいた水城が開口一番穏やかな笑顔でそう言ってくれる。
「あ、ありがとうございます。水城さん」
「悪いんだけど、もうちょっと待っててね。社長、もうすぐお戻りになるはずだから」
「はい。私もちょっと早く来すぎちゃったんです。気にしないで下さい」
雑談を続けながら水城は社長室へとマヤを促し、そこの応接ソファを勧める。すると、
「夫婦喧嘩は、ちゃんと仲直りしたのね」
腰掛けたマヤの耳元に、水城はそっと内緒話の様に囁いた。
驚き顔を上げるマヤに、水城はにっこりと微笑み、サングラスの奥の瞳が意味深げに悪戯っぽく笑う。
ケンカをしていた事は、まさか真澄が水城に教えたわけではあるまい。
つくづく何でもお見通しな彼女。まるで超能力者で、テレパシーか何かで思考を読まれているのではなかろうかと疑ってしまう。
もっと大人っぽい女性になりたいとは、真澄の横にいて似合う女性になりたいとは、彼を好きになった時から常にマヤの心にある想いではあるが、その『大人っぽい』というのが 水城のような女性を指すとしたら、一生自分には成り得まいと思える。
まあ、マヤが真顔で将来水城のような女性になりたいと言った時の、真澄の顔もまた見物だろうが。
マヤは焦ってなんと言うべきか考えるが、水城は先ほどの自分の発言など存在しなかった事のように、そ知らぬ顔で真澄のデスクの上の書類を片している。
思わず尊敬の念でじっと水城を見詰めていると、その視線に気付いたのか、水城がマヤを振り返る。するとマヤを見詰め、その美しい眉を僅かに歪めた。
「マヤちゃん。あなた、ちょっと痩せたんじゃない?」
「え? そ、そうですか?? あ…うーん、そうかも… ちょっと最近食欲が無くって」
「だめよ。体力が資本の仕事なんだから。今日は真澄様に美味しいものをご馳走してもらって、しっかり食べなきゃね」
そうですね、と素直に頷くマヤに、安心したように水城は微笑んだ。
「じゃ、マヤちゃんの好きなミルクティでもいれて来るわね」
そう言って踵を返す水城に、
「あっ、水城さん、ごめんなさい。あの…出来たらレモンティにして貰ってもいいですか?」
「あら、そうなの?」
「なんか、酸っぱいのが飲みたくて… 最近よくあるんですよ」
何げないマヤの言葉に、ドアノブに伸びていた水城の手がピタリと止まる。
え?と思っていると、水城はくるりと向き直り再度マヤの座るソファの傍に戻ってくると、膝を折ってマヤの顔を下から覗き込んできた。
なにやら珍しく緊張した様な水城の顔に、なにかヘンな事を言っただろうかと、妙に焦りの気持ちが湧いてくる。
「ねぇ、マヤちゃん。その…ね、最近食欲がないって言ってたけど、それってどんな感 じ?」
「え…? え〜と、なんかムカムカするような… 気持ち悪いってゆうか…」
どうしたのだろうか、水城は益々考え込んだような表情になり、今度はマヤの横に腰掛けてくる。
そして膝の上にあったマヤの両手を、水城の美しくマニキュアを塗られた手がそっと包み込むと、いよいよマヤは何事かと驚きを隠せない。
「あ、のぉ…水城さん?」
びくびくと出したマヤの声を制するように、水城はぐっとマヤの手を強く握ると、
「単刀直入に効くわ。マヤちゃん、最近月のものは来た?」
「は?? え、月の…って、え… えぇぇっ!?」
「落ち着いて! 大事なことなのよ。よく考えてみて」
マヤはかかかっと真っ赤になってしまったが、真剣な水城の声色にはっとある可能性に思い至る。
(…あれ? そういえば……)
記憶を辿って辿って振り返ってみても、ここしばらく『例のもの』がきた覚えがない。
元々不順気味のマヤは、さしてこの事について気にしたことは無かったが、考えてみるに新年明けてからまだ1度もないはずだ。
だんだん心臓がどきんどきんと耳に痛いほど高鳴ってきた。
(最後に来たのって…たしか…11月の、最初ごろじゃあ…)
ふとその月の終わりに、真澄と行ったドレスのフィッティングの日の夜の事が思い出される。
(もしかして… でも、まさかっ…!)
「み、水城さぁん…〜〜〜」
思わず泣きそうなほど情けない声を出してしまう。実際パニックで泣きそうだ。
「マヤちゃん、やっぱりそうなのっ!?」
水城が興奮して腰を浮かせた瞬間、ばたんっ!!と扉が開いたから、マヤも水城も心臓がすくみ上がるかのような心地になってしまう。
慌てて振り返れば、書類を小脇にした真澄がそこに立っていた。

 

ようやく出先での仕事から帰り着き、秘書室ですでにマヤが来ていることを聞いた真澄は勢いよく自らの執務室の扉を開けた。
だが室内に立ち込める微妙な空気に、ん?と、真澄は思わず顎を引いてしまう。
昨夜ようやく仲直りをし今日は満面の笑みで自分を迎えてくれるはずのマヤは今にも泣きそうな顔をして自分を見詰めているし、冷静沈着がウリの水城もそわそわと動揺し、何と も形容しがたい表情を浮かべて佇んでいる。
「何かあったのか?水城くん」
とりあえず、こんな場合はマヤに聞くより敏腕秘書に聞いたほうが事情をつかみやすい。
「え、えぇ…。とりあえず、わたくしよりもマヤちゃんが直接真澄様にお話しになったほうがよいかと…」
答えを濁されて、問いかけるようにマヤを見れば、これ以上ないほどに真っ赤になって、首が折れるほどに俯いてしまっている。
真澄としてはいよいよ訳が分からない。
「ほら、マヤちゃん。ちゃんと自分から真澄様におっしゃいね」
そう言われて、マヤは消え入りそうなほど小さい声で、…ハイ…と言い、それを確認した水城は、混乱する真澄を放り出して、さっさと社長室を退室して行ってしまった。

二人きりになると、妙な緊迫感が広がる。
「…マヤ?」
真澄の一声に、びくっっとひどく背中を強張らせたので、真澄の中の混乱はますます迷走する。
するとおずおず、という具合で真澄を上目づかいで見上げ、
「あの… ちょ、ちょっと耳、かして下さい…」
その顔はいまだに耳から首まで真っ赤に染まったままだ。
真澄は一体何を言われるのかと、内心少し脅えながらも、だが表面上はさも平然とした顔で言われた通りマヤに近寄り、身を屈めてその唇に耳をよせる。
小さな唇から彼の耳に紡がれた言葉は、思いもよらぬものだった。

 

   「赤ちゃんが…出来たかもしれません…────」

 

 

  ─Fin─

 

 


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